やちむんについて
「やちむん」とは?
「やちむん」とは、沖縄の方言で「焼き物」をあらわす言葉。厚みのある形状に力強く繊細な絵付け、そして素朴な佇まいには、独特の安定感があります。どんな料理でもしっかりと受け止め、使いこむほどに親しみが増していく。そんな「やちむん」の魅力は、沖縄の風と土から生まれた自然の贈り物といえるのかもしれません。
琉球王国に誕生したやちむん
沖縄の焼き物の始まりは、6,600年前につくられた土器であるといわれています。北山・中山・南山という3つの勢力が台頭していた三山(さんざん)時代になり、それぞれの勢力が独自で貿易網を築き上げ、中国や朝鮮、タイ、ベトナムなど国外から陶磁器を輸入していました。そのような盛んな海外貿易の影響を受けて、焼き物の技術が発展していきました。
その後、1429年に尚巴志(しょうはし)により三山が統一され、琉球王国が誕生しました。王府のもと、1,600年代には薩摩から招いた朝鮮人陶工が指導を行い、新たな製陶技術が伝えられたと考えられています。このようにして琉球王国、つまり沖縄県のやちむんの基礎が築かれました。
やちむんについて
民藝運動とやちむんの人気
1940年代に沖縄は太平洋戦争の戦火に巻き込まれ、激しい地上戦が行われることになります。しかし、壺屋周辺は奇跡的に戦火を逃れていたのです。
終戦後、アメリカ軍の占領下となった沖縄では生活必需品の碗や皿が不足する事態に。壺屋に使用できる窯が残っていたことから、陶工たちはアメリカ軍に壺屋に帰れば陶器を作れると訴え、各収容所の陶工たちが解放され壺屋へ集められます。
こうして、壺屋でやちむん作りが再開。壺屋陶工たちの解放は、「那覇市の戦後復興は壺屋からはじまった」といわれるエピソードとして語り継がれています。
戦後のやちむんと読谷村
壺屋地区は太平洋戦争(沖縄戦)で沖縄全土が焦土と化す中、比較的軽微な被害で済み、再興に従って、壺屋焼も徐々に勢いを取り戻します。
しかし、窯は市街地に集中しているため、今度は薪窯による黒煙の害が深刻な問題となり、1970年代、那覇市は公害対策のため薪による窯使用を禁止、窯場はガス窯への転換を余儀なくされ、伝統的な技法を失った壺屋焼は岐路に立たされます。
そこに、基地返還による土地転用を模索していた読谷村が窯元の積極的な誘致を行います。
読谷村は元々、ミンサー、花織など他の伝統工芸も多く、文化奨励に積極的、加えて読谷周辺は原料となる良質の陶土が豊富でした。
そして薪窯の設置にも柔軟に対応したことで金城次郎初め、多くの陶芸家たちが壺屋を離れ、読谷村に集まり、陶芸村を作ります。
現在も数十件の窯元が集まっており、「読谷やちむんの里」として観光ルートにもなっています。
一方の壺屋地区もガス窯で焼く窯元や、県内各地の焼物を扱う小売店などで賑わっており、読谷と壺屋が今でも沖縄の焼物を支える2大エリアとなっています。